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『ちょうちょう』
日本では誰もが知っている童謡である。
この曲に4番まで歌詞があったことは
あまり知られていない。
私も2番までしか知らなかった。
でも、2番は違和感があるな〜と思っていたが
実はこんな話があったのだ。
原曲はドイツ民謡とも、スペイン民謡とも言われている。
1、ちょうちょう ちょうちょう
菜の葉にとまれ
菜の葉にあいたら 桜にとまれ
桜の花の 花から花へ
とまれよ遊べ 遊べよとまれ
これは小学校の音楽の教科書に載っているので
みんなが知っている歌詞。
戦前は
『桜の花の 花から花へ』の部分が
『桜の花の さかゆる御代(みよ)に』だった。
戦後、これは軍国主義的だということで改訂された。
さて、日本版『ちょうちょう』
そもそもの発端は
明治になって、文部省の伊澤修二がアメリカに留学して
西洋音楽を学び、日本に西洋音楽を導入したことから始まる。
西洋の民謡や賛美歌のメロディーを使って
日本語の歌詞をつけ、
初めての『小学唱歌集』を作った。
それが明治14年のことである。
なんと延々と今日まで
文部省の音楽教育はその流れで来ているのだから
驚いてしまう。
話は『ちょうちょう』に戻るが
伊澤は野村秋足(あきたり)に作詞を依頼して
明治7年に1番ができた。
その後、『小学唱歌集』を発行するにあたって
国文学者の稲垣千頴(ちかい)に2番を依頼した。
2、起きよ 起きよ ねぐらのすずめ
朝日の光の さし来ぬ先に
ねぐらをいでて 梢にとまり
遊べよ すずめ 歌へよ すずめ
その時は今までの『ちょうちょう』の歌詞はやめる予定だったが
新しい『すずめ』に伊澤が反発したらしい。
それで中庸を取って、無関係なふたつが同居することになってしまった。
何故、反発したのかと考えると
伊澤は忠君愛国主義を唱えていたので
戦後変えられた『桜の花の 栄える御代に』の部分を
かなり気に入っていたのではないだろうか。
『すずめ』は愛国主義的なところは全くない。
そして15年間は2番までの歌詞で歌われ、
さらに文部省は明治29年、『新編教育唱歌集』を発行するにあたり
3番・4番を付け加えたのである。
3、とんぼ とんぼ こちきてとまれ
垣根の秋草 いまこそ盛り
盛りの萩に はねうち休め
止まれや止まれ 休めや休め
4、つばめ つばめ 飛びこよ つばめ
古巣を忘れず 今年もここに
かへりし心 なつかし うれし
飛びこよ つばめ かへれや つばめ
『ちょうちょう』という題名なのに
なぜ、すずめ・・?とんぼ・・?つばめ・・?
という疑問を解消するためか
昭和22年の新しい音楽の教科書からは
1番の『ちょうちょう』だけになったのである。
いろいろな事情で『蝶』になったものの
ちょっとした大人のさじ加減で
誰もが知ってる『すずめ』の歌、
あるいは『とんぼ』の歌、
はたまた『つばめ』の歌に変わっていたかもしれない・・。

最近では歳をとって
弾けなくなってしまったが
父はアマチュアのチェロ弾きだった。
小さい頃
私は8時には寝かされていたが
寝付きが悪かった。
父は仕事から帰って来て
毎晩、夕食のあと9時ごろから
練習を始める。
半分眠ったような
半分目覚めているような
そんな朦朧とした中で
聞こえてくる曲のひとつが
シューマンの『トロイメライ』。
『トロイメライ』とはドイツ語で『夢』。
物悲しいチェロの音色が
今でも夢のように思い出される。
この『トロイメライ』は本来はピアノ曲である。
先日手塚治虫文化賞を受賞した、
島田虎之介氏の『トロイメライ』を読んだ。
一台の古いピアノをめぐっての
100年に渡る話。
舞台はカメルーン、ジャカルタ、イラン・イラク国境
そして2002年ワールドカップの日本。
様々な時代、様々な国、様々な人々のエピソードが
パズルのようにはめこまれ、
それがクライマックスの
『トロイメライ』の最初の『ド』の音に
怒涛の如く凝縮し集中するのは圧巻だ。
夢に誘うような『トロイメライ』の曲・・
昨夜はマンガ『トロイメライ』のために
興奮して眠れなくなってしまった・・・。

時はいつも同じ方向へ流れていく。
音楽も時の流れにそって
リズムを刻み、メロディーを奏で
ときには、沈黙もはさみながら
前へ前へと進んでいく。
時を止めることができないように
音楽も止まらない。
そして
音は出た瞬間に消えていく。
音楽が『時間の芸術』だといわれる所以だ。
学生時代、先生がおっしゃった。
「演奏家は聴衆の時間に責任を負っているのだから
どんなことがあっても、演奏を止めてはいけない。」
その後、様々なコンサートで
演奏家がいきなり譜を忘れて
適当に即興演奏をしながら、
ことなきを得るシーンを見た。
本人はさぞ必死だったんだろうけど
プロだから顔に出さない。
曲を熟知している人以外は
何も気がつかないのだった。
そんなドキドキすることもたまにあるけれど
息づかいが伝わってくるステージで
生の演奏を聴くのは良いものだ。
演奏者の呼吸が自分とぴったり合って
その上で時々ハッとさせる新鮮な「ずれ」を感じるとき
いい演奏だなあ・・と思う。
また、音楽のフレーズを
煉瓦をひとつひとつ積み上げるように
丁寧に弾いていき
最後に大きな建造物が見えてきたとき
感動に包まれる。
昔は生演奏しかなかったのだが
録音技術が発達してからの
録音された音楽は
果たして『時間の芸術』と呼んで良いのだろうか?
演奏者は何度も演奏し
うまくいったところをつないで
できるだけ完全なものを作ろうとする。
聴衆もCDを止めたり、戻したりしながら
何度も繰り返し聴くことができる。
高いチケットを買わずに
自宅でいつでも名演奏を聴けるし、
過去の名演奏家の演奏も聴けるという
利点がたくさんあるので
CDは本当に便利なものである。
でも、「時間の芸術」とは
また別のものだという認識は
いつも持っていなくてはいけないのでは
ないだろうか・・。

子どもの時、50巻の名曲全集が家にあり
それぞれ小さなドーナツ盤レコードが2枚ずつ付いていた。
有名どころの曲をそのレコードで覚えたのだったが
小さなレコード盤だったので、長い曲は1楽章分しか入っていなかった。
その中でも好きだったひとつに
ベートーヴェンのヴァイオリンとピアノのためのソナタ第9番
いわゆる『クロイツェル』があった。
ただし、これも第1楽章だけ。
かっこいい曲だと思って何度も繰り返し聴いた。
これを悪魔的な恐ろしい曲だと感じた人がいた。
ロシアの文豪トルストイである。
彼はこの曲にインスピレーションを得て
『クロイツェルソナタ』という小説を書いた。
関係の冷めた夫婦がいる。
趣味でピアノを弾く妻が
ヴァイオリニストと『クロイツェル』を演奏する。
それを聴いた夫が二人の不倫を確信して
嫉妬に狂って妻を殺してしまう話・・。
これを読んだ高校時代
さっぱりピンと来ない話だったが
今読んでみると
トルストイがこの曲をどう聴いていたのかが
興味深く、面白い。
主人公はこのように言う。
『二人はベートーヴェンのクロイツェル・ソナタを弾いたのです。
あなたはあの最初のプレスとをご存じですか?
ご存じですね?!
ララ!ラララ!・・・恐ろしい曲ですね、あのソナタは。
とくにこの部分が。
もっとも、一般的にいって、音楽というものは恐ろしいものです!
いったいあれはなんでしょう?私にはわかりませんよ。
いったい音楽とはなんでしょう?
いったいなにをするものでしょう?
またなんのために音楽は,現にしているようなことをするのでしょう?
人の話では、音楽は人の魂を高めるような作用をするということです。
でたらめです、嘘っぱちです!
音楽は作用します、
---わたしは自分のことを言っているのですよ、---
が、それはけっして、魂を高めるようにではありません。
音楽は、魂を高めも低めもしません。
ただ魂をいらいらさせるだけです。
さあ、なんと言ったらいいでしょうね?
音楽はわたしをして自分を忘れさせ、自分の真の位置を忘れさせます。
わたしを駆って何かべつの, 自分のでない位置へつれて行きます。
わたしは音楽の影響によって
じっさいには感じてないものを感じ、
理解していないものを理解し、
できないことができるような気がします。』
(中村白葉・訳)
第1楽章のこの強引なまでの情熱。
息の荒くなるようなピアノとヴァイオリンのやりとり。
主人公はクロイツェルを聴きながら妄想をふくらませた。
トルストイはその妄想を客観的に文学へと昇華させた。
小説全体を見渡しても
曲の流れに似たテンポで
破局に向かって突っ走るプレストである。
ただ、他の楽章について
『けっこう平凡な、新味のない、
おまけに下品な変奏曲をつけたアンダンテと
まったく弱々しい終曲』
と主人公に言わせているのが気になる。
ベートーヴェンは構成力のある作曲家であり
このソナタは全部合わせてひとつの素晴らしい曲だと思う。
トルストイ先生は2・3楽章については
お気に召さなかったのかもしれないが
ベートーヴェンが読んだら怒るだろうな・・。
因みに
最初、この曲は初演したイギリスのヴァイオリニスト
ブリッジタワーという人に献呈されていたのだが
ベートーヴェンとある女性をめぐって行き違いがあり
献呈を取り消して
有名だったヴァイオリニストのクロイツェルに
献呈しなおしたのだった。
もし、そのままブリッジタワーに贈られていたなら
トルストイの小説の題名は
『ブリッジタワーソナタ』になっていたのだろうか・・?

大人になって初めてヴァイオリンを持ったAさんは
毎週きちんと練習をしてレッスンに通って
もう10年以上になる。
でも、ある日
「すみません・・今週はどうしても練習できなかったので
お休みしようと思ったんですけど、
来てしまいました・・・。」
「練習してなくても、気軽に来てくださっていいんですよー。
ここで、練習すればいいんですからね〜。」
というわけで、初めての曲をその場で弾いた。
いつも、何でもすらすら弾けていたAさんは
今回は人が変わったように、さっぱり弾けなかった。
その時、私は初めて気がついた。
Aさんがいつも上手だったのは
並々ならぬ努力のせいだったのだ。
そういえば
私が大学1年の頃、こんなことがあった。
私はヴァイオリン専攻だったけれど
ピアノも大好きだったので
熱心に練習していた。
大学で習っているピアノは夏休みは休講。
先生に自宅レッスンをお願いした。
でも、私にとってピアノはヴァイオリンのようには
すらすら譜読みができず、
レッスンの日まで頑張ったものの
曲を弾きこなせていなかった。
先生はこんなに弾けていないんじゃ
レッスンにならないとおっしゃって
まともに見てはくださらなかった・・。
自分では一生懸命練習したつもりだったので
すごく悲しかった・・。
そんな思い出もあったから
生徒がどんな気持ちでレッスンに来ているのかを
思いやることが大切と思っていたのに・・
Aさんは上手に弾けて当たり前なんだと
思いこんでいなかったか・・
そして、Aさんの方は期待に応えようと
無理をしてきたのではないだろうか・・
などと考え込んでしまった。
様々な人が
様々な思いを持って
レッスンに来ているわけだから
その思いをくみ取れるようになりたい。
そんな風に思っているけれど
うまくいったり、いかなかったり・・
生徒たちが楽しい気持ちで
レッスンに来てくれますように・・。





